紅白の丸窓電車、最後の日々 <後編> [スカーレットのトラムたち[名鉄岐阜線]]
今日もちょっと短めの記事で。
【2013年8月14日13時10分】 旧名鉄谷汲線・谷汲駅跡
岐阜の街から路面電車が消えたのが13年前の春。何度も書いているように<変態鉄>
にとっては、1991年の夏、生まれて初めて「電車の写真が撮りたい」と、駅以外の
場所で走ってくる電車を待ち受けたのが、この路線だった。
まさに自分にとっての趣味活動の“原点”のような路線である。
城下町特有の狭い街路、そしてクルマ社会。市内線の廃止は接続して郊外へと
向かう各路線にとっても、その存在意義を失うことにも等しく。地元にとっても
線路撤去に伴う道路拡幅の方が歓迎されるような...
<鉄>としては、<変態鉄>としては、廃線になる直前の岐阜の街、訪れる度に
寂しい気持ちだったのである。<鉄>だから贔屓目に見てしまうのか...
廃線後も何度か訪れた岐阜の中心街、電車がなくなって以降、一気に寂れたような
印象を持ってしまう。父の赴任先の関係で毎月のように岐阜を訪れたのは1991年、
あの頃の“新岐阜駅前”も“徹明町”も柳ヶ瀬も、もっと賑わっていた気が...
「名鉄岐阜600V線」の全線廃止が秒読み段階に入っていた2005年2月、最後まで
予備車として残った大正生まれの古豪・モ510形にとっては、もしかすると最後の
“里帰り”、大学鉄研の貸切で美濃町線・新関駅まで運転されると聞いて、
岐阜に駆けつけた<変態鉄>だった。
…… ……
何だか柄にも無く、ちょっと感傷的な(?)、カッコいいことを書いておいて
エラソーに語っている訳だが、当時の<変態鉄>、一番、趣味活動がテキトー
だった時代でもある。撮影記録もろくに残していないので、この貴重な運転も
確か2月だったはずだが、細かい日付は分からない。
当時の鉄道雑誌のバックナンバーを探してみたが、この団体貸切電車については
特に記述は見つけられなかった。
(写真には「西北の杜」号という列車名。これはある大学の鉄研がよく使う名称)
だから、日付も書けなければ、これが“モ510形、最後の美濃町線走行”だったか
そのあたりも判然としない。あくまで<変態鉄>にとっては最後の撮影。
【2005年2月頃】 名鉄揖斐線(当時)・忠節駅
やはり、そうなると気合いの入り方も違った。“レリーズスイッチ”など、名前も
知らないまま。三脚に固定したとはいえ、脚もガクガクのボロい三脚、しかも
カメラのシャッターボタンを手押し。手ブレしないはずも無く。
でも、夜の帳の下りた忠節駅で回送時刻を待つモ510形を“独り占め”できて
大満足でホテルに引き上げたのだった。
…… ……
さて、いよいよ、その朝。
確かJR岐阜駅前、金華橋通りに面したホテルに泊まったような朧気な記憶。
たぶん、新岐阜駅からの田神線から美濃町線に入る系統に乗ったような...
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線(当時)・新岐阜駅前電停
朝、人通りも疎らな商店街を抜ければ新岐阜駅前電停。
市内線には生え抜きの旧型車、モ570形が客待ち中。岐阜の中心街、どこも道路が
狭くて、市内線で電停に“安全地帯”があったのは岐阜駅前だけ。新岐阜駅前は
辛うじてカラー舗装とロープがあって。その他の電停は道路中央に白線を引いた
だけの“ノーガード電停”。電車を待っていた乗客とクルマの事故もあり、その
“危険性”も電車の廃止に繋がったとされている。
当時、岐阜市と、その隣の関市を結んでいたのが美濃町線。関市の北側が美濃市、
市に昇格する前の「美濃町」が線名の由来。その美濃-新関間は、これまた渋い
区間だったが、長良川鉄道(旧国鉄越美南線)と並行しているとして、一足先に
廃線となっていた。
【2005年2月頃】 名鉄美濃町線(当時)・白金駅
この朝、最初の撮影地に選んだのは...といっても“駅撮り”というのが、当時の
<変態鉄>のダメっぷりだが。
(構図は二の次、「撮って、すぐに後続に乗って移動」という作戦だった)
そのポイントとして選んだのは白金電停である。岐阜市の東、野一色電停付近から
国道の北側の専用軌道に移って。その途中にあるのが白金電停。
いま見れば、電停ホームが石畳というのが渋すぎる気もするが、当時は電車に夢中。
それだけ若かったのかも知れない。
廃線間近、多くの<鉄>が集まる中でも、沿線住民の皆さんにとっては最後まで
普段通りの「生活の足」。オバチャンが待っているのは関ゆきの電車。
札幌市交通局から移籍してきた“ヨーロピアンスタイル”の連接車870形である。
【2005年2月頃】 名鉄美濃町線(当時)・白金駅
そんな白金電停でちょっと時間があったのだろうか? 何枚か撮っている。
最新鋭のモ800形部分低床車が目の前で交換。
左側の電車の方向幕にも注目。「ワンマン普通 岐阜」と不自然なスペース。
当時、名鉄ではJR線との区別で「新※※」という駅名だったものを「名鉄※※」へ
改称を進めていた。「新名古屋」は「名鉄名古屋」、そして「新岐阜」は
「名鉄岐阜」といった感じ。でも、600V線区は廃線が決まっていたので
“放置プレー”だった。市内線はそのまま「新岐阜駅前」だった。
でも、田神線に乗り入れる美濃町線電車の発着駅は「名鉄岐阜」。
方向幕を差し替えるのも面倒で「新」の字を隠しただけで。そのあたりも廃止を
控えて設備投資を控えていることには、<鉄>として寂しさを感じたのだった。
【2005年2月頃】 名鉄美濃町線(当時)・白金駅
ここにも、かなり多くの“同業者さん”が集まって、撮影の足場の確保に苦労した
ような記憶がある。朝から混乱気味の沿線、モ510形2連が白金電停にやって来た。
ちなみに正面窓下の黄色い丸印は「続行標識」。ザックリ言えば、単線区間に
2列車を続けて走らせる場合に、対向列車の運転士に注意を促す合図である。
美濃町線では日常的に「続行運転」が行われており、当時の<鉄>の注目点でも
あったのだった。
…… ……
ここから、1日、最後は市内線まで、モ510形を追いかけ回した<変態鉄>。
【2005年2月頃】 名鉄揖斐線(当時)・忠節駅
やはり、その最後は黒野の車庫へと回送される姿を忠節駅のホームで記録していた。
でも、そのネガの後半は、大糸線のキハ52形。<変態鉄>の趣味活動が大きな
転換点を迎えていた2005年の春だった。
と、エラソーな結びを書いているのは、ネガのスキャンが間に合っていないため。
ネガアルバムからこの日のものを“発掘”して、それをスキャナーにかける作業、
意外と根気が要るのである。木曜は公休日、本当は“出撃”したかったが...
たぶん、自宅でゴロゴロして過ごすだけになりそうな...。(おわり)
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
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【2013年8月14日13時10分】 旧名鉄谷汲線・谷汲駅跡
岐阜の街から路面電車が消えたのが13年前の春。何度も書いているように<変態鉄>
にとっては、1991年の夏、生まれて初めて「電車の写真が撮りたい」と、駅以外の
場所で走ってくる電車を待ち受けたのが、この路線だった。
まさに自分にとっての趣味活動の“原点”のような路線である。
城下町特有の狭い街路、そしてクルマ社会。市内線の廃止は接続して郊外へと
向かう各路線にとっても、その存在意義を失うことにも等しく。地元にとっても
線路撤去に伴う道路拡幅の方が歓迎されるような...
<鉄>としては、<変態鉄>としては、廃線になる直前の岐阜の街、訪れる度に
寂しい気持ちだったのである。<鉄>だから贔屓目に見てしまうのか...
廃線後も何度か訪れた岐阜の中心街、電車がなくなって以降、一気に寂れたような
印象を持ってしまう。父の赴任先の関係で毎月のように岐阜を訪れたのは1991年、
あの頃の“新岐阜駅前”も“徹明町”も柳ヶ瀬も、もっと賑わっていた気が...
「名鉄岐阜600V線」の全線廃止が秒読み段階に入っていた2005年2月、最後まで
予備車として残った大正生まれの古豪・モ510形にとっては、もしかすると最後の
“里帰り”、大学鉄研の貸切で美濃町線・新関駅まで運転されると聞いて、
岐阜に駆けつけた<変態鉄>だった。
…… ……
何だか柄にも無く、ちょっと感傷的な(?)、カッコいいことを書いておいて
エラソーに語っている訳だが、当時の<変態鉄>、一番、趣味活動がテキトー
だった時代でもある。撮影記録もろくに残していないので、この貴重な運転も
確か2月だったはずだが、細かい日付は分からない。
当時の鉄道雑誌のバックナンバーを探してみたが、この団体貸切電車については
特に記述は見つけられなかった。
(写真には「西北の杜」号という列車名。これはある大学の鉄研がよく使う名称)
だから、日付も書けなければ、これが“モ510形、最後の美濃町線走行”だったか
そのあたりも判然としない。あくまで<変態鉄>にとっては最後の撮影。
【2005年2月頃】 名鉄揖斐線(当時)・忠節駅
やはり、そうなると気合いの入り方も違った。“レリーズスイッチ”など、名前も
知らないまま。三脚に固定したとはいえ、脚もガクガクのボロい三脚、しかも
カメラのシャッターボタンを手押し。手ブレしないはずも無く。
でも、夜の帳の下りた忠節駅で回送時刻を待つモ510形を“独り占め”できて
大満足でホテルに引き上げたのだった。
…… ……
さて、いよいよ、その朝。
確かJR岐阜駅前、金華橋通りに面したホテルに泊まったような朧気な記憶。
たぶん、新岐阜駅からの田神線から美濃町線に入る系統に乗ったような...
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線(当時)・新岐阜駅前電停
朝、人通りも疎らな商店街を抜ければ新岐阜駅前電停。
市内線には生え抜きの旧型車、モ570形が客待ち中。岐阜の中心街、どこも道路が
狭くて、市内線で電停に“安全地帯”があったのは岐阜駅前だけ。新岐阜駅前は
辛うじてカラー舗装とロープがあって。その他の電停は道路中央に白線を引いた
だけの“ノーガード電停”。電車を待っていた乗客とクルマの事故もあり、その
“危険性”も電車の廃止に繋がったとされている。
当時、岐阜市と、その隣の関市を結んでいたのが美濃町線。関市の北側が美濃市、
市に昇格する前の「美濃町」が線名の由来。その美濃-新関間は、これまた渋い
区間だったが、長良川鉄道(旧国鉄越美南線)と並行しているとして、一足先に
廃線となっていた。
【2005年2月頃】 名鉄美濃町線(当時)・白金駅
この朝、最初の撮影地に選んだのは...といっても“駅撮り”というのが、当時の
<変態鉄>のダメっぷりだが。
(構図は二の次、「撮って、すぐに後続に乗って移動」という作戦だった)
そのポイントとして選んだのは白金電停である。岐阜市の東、野一色電停付近から
国道の北側の専用軌道に移って。その途中にあるのが白金電停。
いま見れば、電停ホームが石畳というのが渋すぎる気もするが、当時は電車に夢中。
それだけ若かったのかも知れない。
廃線間近、多くの<鉄>が集まる中でも、沿線住民の皆さんにとっては最後まで
普段通りの「生活の足」。オバチャンが待っているのは関ゆきの電車。
札幌市交通局から移籍してきた“ヨーロピアンスタイル”の連接車870形である。
【2005年2月頃】 名鉄美濃町線(当時)・白金駅
そんな白金電停でちょっと時間があったのだろうか? 何枚か撮っている。
最新鋭のモ800形部分低床車が目の前で交換。
左側の電車の方向幕にも注目。「ワンマン普通 岐阜」と不自然なスペース。
当時、名鉄ではJR線との区別で「新※※」という駅名だったものを「名鉄※※」へ
改称を進めていた。「新名古屋」は「名鉄名古屋」、そして「新岐阜」は
「名鉄岐阜」といった感じ。でも、600V線区は廃線が決まっていたので
“放置プレー”だった。市内線はそのまま「新岐阜駅前」だった。
でも、田神線に乗り入れる美濃町線電車の発着駅は「名鉄岐阜」。
方向幕を差し替えるのも面倒で「新」の字を隠しただけで。そのあたりも廃止を
控えて設備投資を控えていることには、<鉄>として寂しさを感じたのだった。
【2005年2月頃】 名鉄美濃町線(当時)・白金駅
ここにも、かなり多くの“同業者さん”が集まって、撮影の足場の確保に苦労した
ような記憶がある。朝から混乱気味の沿線、モ510形2連が白金電停にやって来た。
ちなみに正面窓下の黄色い丸印は「続行標識」。ザックリ言えば、単線区間に
2列車を続けて走らせる場合に、対向列車の運転士に注意を促す合図である。
美濃町線では日常的に「続行運転」が行われており、当時の<鉄>の注目点でも
あったのだった。
…… ……
ここから、1日、最後は市内線まで、モ510形を追いかけ回した<変態鉄>。
【2005年2月頃】 名鉄揖斐線(当時)・忠節駅
やはり、その最後は黒野の車庫へと回送される姿を忠節駅のホームで記録していた。
でも、そのネガの後半は、大糸線のキハ52形。<変態鉄>の趣味活動が大きな
転換点を迎えていた2005年の春だった。
と、エラソーな結びを書いているのは、ネガのスキャンが間に合っていないため。
ネガアルバムからこの日のものを“発掘”して、それをスキャナーにかける作業、
意外と根気が要るのである。木曜は公休日、本当は“出撃”したかったが...
たぶん、自宅でゴロゴロして過ごすだけになりそうな...。(おわり)
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
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拙ブログへのコメントありがとうございます。
「おおさか東線」は延伸されるんですか(´c_` )ホー
大阪にはこれからも何度も行くでしょうから
乗る機会はあると思います。
岐阜には2度宿泊しましたが確かに繁華街が寂しかったです。
岐阜に限らず県庁所在地でも寂しい街は多いですね。
賑わっているのは政令指定都市ぐらいかな。
by johncomeback (2018-10-11 09:12)
johncomebackさん
コメントありがとうございます。
正式には貨物線の旅客化工事と言うことになるのでしょうが、
新大阪駅まで延伸され、来春、開業することになっています。
岐阜の街は90年台前半に行ったときには、もっと活気があった
ように記憶しています。「街が廃れたから電車がなくなる」のか
「電車がなくなったから街が廃れた」のか、<鉄>の間でも
意見が分かれるものですが、電車の廃止が1つの契機には
なったように思います。
by ferrum_queserasera (2018-10-11 21:27)