<変態鉄>の<鉄>活動とは!?(2)車内放送マニア [車内放送]
自分の好きな食べ物...特に“絶対的存在”といえるものは無いのだが、でも、
ラーメンは好きなのである。もちろん、ラーメンと言っても千差万別、ただその中で
太くて縮れた麺が好き、スープはちょっとコッテリしている方が嬉しいだろうか。
でも、“ラーメン通”と呼ばれる人たちと、そんな会話をしていると...
「※※にある※※※というお店、あそこは、※※系の中でも、※※にあった※※※
というお店の大将の弟子が※※して、それで独立した※※※さんが...云々」
と蘊蓄ばかり語ってくるヤツ、そういうのが一番キライな<変態鉄>である。
そんな知識を付けるより、食べてみて「おいしい!!」と思えるお店を見つければ、
それで良い...というのが<変態鉄>の考え方。
そんなテキトー人間。<鉄>活動でもヘンなことばかりして“同好の士”の皆さんを
呆れさせることも少なくない。
【2012年6月5日8時54分】 水島臨海鉄道水島本線・キハ204車内
貴重な列車、珍しい列車に乗ったとき、その記録として写真を撮るのが<鉄>の
一般的な行動、でも、<変態鉄>は...
最近はカメラが中心になったが、大学生の頃など、ほとんど列車の写真は撮らずに
マイクとレコーダーを提げて列車内を徘徊する<変態鉄>だった。
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
写真撮影より間違いなく難易度が高いのが「車内録音」。その中で、初めて
「“会心の1枚”が撮れた」ならぬ「会心の1本が録れた」と思える録音になったのが
1998年3月16日、山陰本線 下り普通・第145D列車。
直江駅を出て終点の出雲市駅まで、録音した車両番号は「キハ47 3011」と
記録している。
…… ……
つい先日、ちょっとだけ実家に寄ってきた。その際、本棚から1冊の鉄道誌を。
いや~ぁ、懐かしい。
まだ、インターネットもいまほどには...、イマドキの若い方は「固定電話」すら
珍しい存在なのに、90年台のインターネット接続といえば、パソコンから
電話線(!!)を伸ばして、NTTの電話回線を通じて接続するのが普通だった。
もちろん、通信速度も遅くて。
そんな時代、<鉄>活動の情報源は鉄道雑誌だった。月刊誌だが、1ヶ月の間に
まさに穴が開くくらいまで目を通してしまっていたのだった。そんな中の1冊。
この「生録大作戦」というのが、<変態鉄>の「車内録音」に走らせるキッカケと
なった記事だったのである。内容を覚えてしまう位、何度も熟読して...
小中学生の頃、カセットテープ片手に列車に乗った経験のあった<変態鉄>、
“MD”とか“DAT”という、初めて聞く単語に驚きの連続。
バイト代をもって家電量販店へと走ったのだった。
そう、このページにも出ているポータブルMDレコーダを買いに...。
「ポータブル」といっても、文庫本を2冊重ねた位のサイズだったが...。
ちなみに、巻頭の写真ページが、八高線のキハ35系とDD51の姿...というのも
時代を感じさせる。この号の新車トピックスのトップが「500系新幹線量産先行車」と
「351系振り子特急型電車」、どちらも既に第一線を退いており、351系に至っては
すでに過去帳入りした車輌である。
でも...
「車内録音」というのは、なかなかうまくいかないのである。
写真撮影なら、1/1000秒ほどで終わるもの。その中で、思い描いた画を撮れれば...
でも、録音となると数分、場合によっては1時間とか、そういう間、ずっと
良い状態が続いていないと...。
写真撮影なら目障りなものがあれば、構図を工夫して視界の中から消せば良いが
録音となれば、マイクの周囲360度、S/N...シグナル-ノイズ...は選ぶことが
できず。せっかく良い感じで録れていたのに、向かいの席のオバチャンが
足でステップを踏みながら妙な鼻歌を...、それで“撃沈”などということも。
運に左右される部分も多く...、
さて、この時期、ちょうどいまから20年ほど前。<変態鉄>は山陰にハマっていた。
【1998年3月】 山陰本線・米子駅
まだ「国鉄型」がそれほど<鉄>に意識される存在になっていなかった当時、
でも、米子支社管内は“別格”だった。この当時、分割民営化から10年ほど、
車両数にして過半数は国鉄時代の車輌だったはずだが、各地で“地域色”と
呼ばれるカラーへの塗り替えが進められており。
そんな中で、国鉄時代の車輌を国鉄時代のカラーで、そのまま使い続けていたのが
JR西日本米子支社だった。
ちなみに、汚い話で恐縮だが、垂れ流し式の車内トイレが最後まで残っていたのも
米子である。(現在は床下に汚物処理タンクが付いている)
「住宅密集地を走るとき、高架を走るときには、列車のトイレの使用を
ご遠慮くださいますようお願いいたします」
の車内放送、山陰本線では2000年頃まで特急列車でも聞くことが出来た。
この時期、<変態鉄>は、いまでは考えられない位、詳細な“旅行記録”を
付けていた。メモ帳を持ち歩き、乗った列車の車両番号はもちろん、
車内で乗り合わせた人たちとの会話、沿線で見かけたもの、すれ違った列車の様子
ありとあらゆることを記録として書き留めていた。
帰宅すると、それをパソコンで整理して。きっぷ類やパンフレットなどを貼って
ファイルにまとめていたのである。
だから、冒頭にも書いたように、録音が1998年3月16日、
山陰本線・第145D列車 米子 8:51 → 10:17 出雲市
に、松江駅の隣、乃木駅から乗車して車内録音を...
そのときの車輌が「キハ47 3011」だったことなども記録が残っていたのである。
【1998年3月】 山陰本線・松江駅
偶然だが、その「キハ47 3011」号車、数日後の松江駅ホームでスナップしている。
タラコ色のキハは、米子管内では当時、当たり前過ぎる存在で。
3000番台はJR西日本管内でロングシート拡大改造を受けた車輌のうち、もともと
トイレ無し車(1000番台)だったものの番号。岡山支社の3000番台はオール
ロングシート化されたが、山陰のものは車輌中央部にはボックスシートも
残っていた。当時の山陰本線はワンマン化は行われておらず、普通列車でも
全部の列車に車掌さんが乗務していて...
当時のメモを見てみると、出雲市駅の1つ手前の直江駅で“バカ停”、
山陰本線は単線なので、対向列車の待ち合わせがあるのは珍しいことでは無く。
車掌さんのところに行って、録音の許可と、終点・出雲市駅到着を告げる車内放送に
オルゴールを鳴らしてくれるようにお願いにいった...と。
そのときの記憶、鮮明に甦ってくる。
【2015年8月2日8時09分】 水島臨海鉄道・倉敷市駅
国鉄型ディーゼル動車の車内放送マイクは基本的に形式を問わず同じもので、
電話の受話器の大きなヤツ...といった感じ(持ってみると意外と重量があって)。
その下側に銀色のゼンマイが見えていて。これを捻ってから「放」のボタンを
押すとゼンマイを巻いた分だけ“アルプスの牧場”(チロル民謡)のオルゴールが
演奏されるようになっている。
(いまではマイクの交換が進み、オルゴールの無い白いマイクが増えている)
いや、ムリにお願いした...のでは無い。この当時、米子車掌区の車掌さんは
特急でも普通でも、各駅の到着放送にオルゴールを流す車掌さんが多かった。
山陰本線では通勤列車でも放送の前後には“アルプスの牧場”が流されていた。
だから、リクエストというよりは「確認」のニュアンスが強かった。
マイクレベルを調整したら、目を閉じてヘッドフォンから聞こえてくる音に
全神経を集中させて...。心臓はバクバクである。
豪快なエンジン音、3分くらいで斐伊川鉄橋を渡る。鉄橋の上では走行音が
思いっきり反響してひときわ大きく、渡り終えて築堤を下っていくところで
オルゴールが...、終点・出雲市駅到着を告げる放送の途中で、走行音が
パッタリと止む。ちょうど、この録音の直前、出雲市駅の高架化が完成し、
高架に付け替えられた“新線”の区間に入ったから。
放送の最後に再びオルゴールが演奏され...、そのまま出雲市駅である。
【1998年3月】 一畑電鉄・遙堪-高浜
ホームは高架だが、駅舎の移転は終わっておらず、フェンスで囲まれた旧地平
ホーム部分を歩いて改札口に向かった...と旅行メモには書かれていた。
こちらは、まだ地平にあった「一畑電車」、吊り掛け車が現役で。
それを撮りに行くのが、この日の目的だった。そう、珍しく<撮り鉄>である。
…… ……
いまでは「録りたい」と思える列車も少なくなった。古い車輌は「撮りたい」
ことが多いのだが、それでも昨今の“インバウンド対策”で旧型車でも車内放送は
多言語の自動放送になっているケースが多く。それとワンマン化。
車掌さんが乗る列車が少なくなって。車内放送も噛み噛みの棒読み調の
アナウンスが増えて...。
それでも、いまもカメラバッグの中に小型のICレコーダを忍ばせているのである。
この話題、もうちょっと続くかも。いや、続かないかも。
~~ お知らせ ~~
このブログは、2020年1月15日をもって更新を終了します。
新ブログ「金失いの道ゆけば Part 2」も、よろしくお願いします。
こちら→ https://gohachinihachi1978.blog.ss-blog.jp/
~~~~ ~~~~
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
あなたの「ポチッ!」こそが、励みになります。あっ、あと、「nice!」も。
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ラーメンは好きなのである。もちろん、ラーメンと言っても千差万別、ただその中で
太くて縮れた麺が好き、スープはちょっとコッテリしている方が嬉しいだろうか。
でも、“ラーメン通”と呼ばれる人たちと、そんな会話をしていると...
「※※にある※※※というお店、あそこは、※※系の中でも、※※にあった※※※
というお店の大将の弟子が※※して、それで独立した※※※さんが...云々」
と蘊蓄ばかり語ってくるヤツ、そういうのが一番キライな<変態鉄>である。
そんな知識を付けるより、食べてみて「おいしい!!」と思えるお店を見つければ、
それで良い...というのが<変態鉄>の考え方。
そんなテキトー人間。<鉄>活動でもヘンなことばかりして“同好の士”の皆さんを
呆れさせることも少なくない。
【2012年6月5日8時54分】 水島臨海鉄道水島本線・キハ204車内
貴重な列車、珍しい列車に乗ったとき、その記録として写真を撮るのが<鉄>の
一般的な行動、でも、<変態鉄>は...
最近はカメラが中心になったが、大学生の頃など、ほとんど列車の写真は撮らずに
マイクとレコーダーを提げて列車内を徘徊する<変態鉄>だった。
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
写真撮影より間違いなく難易度が高いのが「車内録音」。その中で、初めて
「“会心の1枚”が撮れた」ならぬ「会心の1本が録れた」と思える録音になったのが
1998年3月16日、山陰本線 下り普通・第145D列車。
直江駅を出て終点の出雲市駅まで、録音した車両番号は「キハ47 3011」と
記録している。
…… ……
つい先日、ちょっとだけ実家に寄ってきた。その際、本棚から1冊の鉄道誌を。
いや~ぁ、懐かしい。
まだ、インターネットもいまほどには...、イマドキの若い方は「固定電話」すら
珍しい存在なのに、90年台のインターネット接続といえば、パソコンから
電話線(!!)を伸ばして、NTTの電話回線を通じて接続するのが普通だった。
もちろん、通信速度も遅くて。
そんな時代、<鉄>活動の情報源は鉄道雑誌だった。月刊誌だが、1ヶ月の間に
まさに穴が開くくらいまで目を通してしまっていたのだった。そんな中の1冊。
この「生録大作戦」というのが、<変態鉄>の「車内録音」に走らせるキッカケと
なった記事だったのである。内容を覚えてしまう位、何度も熟読して...
小中学生の頃、カセットテープ片手に列車に乗った経験のあった<変態鉄>、
“MD”とか“DAT”という、初めて聞く単語に驚きの連続。
バイト代をもって家電量販店へと走ったのだった。
そう、このページにも出ているポータブルMDレコーダを買いに...。
「ポータブル」といっても、文庫本を2冊重ねた位のサイズだったが...。
ちなみに、巻頭の写真ページが、八高線のキハ35系とDD51の姿...というのも
時代を感じさせる。この号の新車トピックスのトップが「500系新幹線量産先行車」と
「351系振り子特急型電車」、どちらも既に第一線を退いており、351系に至っては
すでに過去帳入りした車輌である。
でも...
「車内録音」というのは、なかなかうまくいかないのである。
写真撮影なら、1/1000秒ほどで終わるもの。その中で、思い描いた画を撮れれば...
でも、録音となると数分、場合によっては1時間とか、そういう間、ずっと
良い状態が続いていないと...。
写真撮影なら目障りなものがあれば、構図を工夫して視界の中から消せば良いが
録音となれば、マイクの周囲360度、S/N...シグナル-ノイズ...は選ぶことが
できず。せっかく良い感じで録れていたのに、向かいの席のオバチャンが
足でステップを踏みながら妙な鼻歌を...、それで“撃沈”などということも。
運に左右される部分も多く...、
さて、この時期、ちょうどいまから20年ほど前。<変態鉄>は山陰にハマっていた。
【1998年3月】 山陰本線・米子駅
まだ「国鉄型」がそれほど<鉄>に意識される存在になっていなかった当時、
でも、米子支社管内は“別格”だった。この当時、分割民営化から10年ほど、
車両数にして過半数は国鉄時代の車輌だったはずだが、各地で“地域色”と
呼ばれるカラーへの塗り替えが進められており。
そんな中で、国鉄時代の車輌を国鉄時代のカラーで、そのまま使い続けていたのが
JR西日本米子支社だった。
ちなみに、汚い話で恐縮だが、垂れ流し式の車内トイレが最後まで残っていたのも
米子である。(現在は床下に汚物処理タンクが付いている)
「住宅密集地を走るとき、高架を走るときには、列車のトイレの使用を
ご遠慮くださいますようお願いいたします」
の車内放送、山陰本線では2000年頃まで特急列車でも聞くことが出来た。
この時期、<変態鉄>は、いまでは考えられない位、詳細な“旅行記録”を
付けていた。メモ帳を持ち歩き、乗った列車の車両番号はもちろん、
車内で乗り合わせた人たちとの会話、沿線で見かけたもの、すれ違った列車の様子
ありとあらゆることを記録として書き留めていた。
帰宅すると、それをパソコンで整理して。きっぷ類やパンフレットなどを貼って
ファイルにまとめていたのである。
だから、冒頭にも書いたように、録音が1998年3月16日、
山陰本線・第145D列車 米子 8:51 → 10:17 出雲市
に、松江駅の隣、乃木駅から乗車して車内録音を...
そのときの車輌が「キハ47 3011」だったことなども記録が残っていたのである。
【1998年3月】 山陰本線・松江駅
偶然だが、その「キハ47 3011」号車、数日後の松江駅ホームでスナップしている。
タラコ色のキハは、米子管内では当時、当たり前過ぎる存在で。
3000番台はJR西日本管内でロングシート拡大改造を受けた車輌のうち、もともと
トイレ無し車(1000番台)だったものの番号。岡山支社の3000番台はオール
ロングシート化されたが、山陰のものは車輌中央部にはボックスシートも
残っていた。当時の山陰本線はワンマン化は行われておらず、普通列車でも
全部の列車に車掌さんが乗務していて...
当時のメモを見てみると、出雲市駅の1つ手前の直江駅で“バカ停”、
山陰本線は単線なので、対向列車の待ち合わせがあるのは珍しいことでは無く。
車掌さんのところに行って、録音の許可と、終点・出雲市駅到着を告げる車内放送に
オルゴールを鳴らしてくれるようにお願いにいった...と。
そのときの記憶、鮮明に甦ってくる。
【2015年8月2日8時09分】 水島臨海鉄道・倉敷市駅
国鉄型ディーゼル動車の車内放送マイクは基本的に形式を問わず同じもので、
電話の受話器の大きなヤツ...といった感じ(持ってみると意外と重量があって)。
その下側に銀色のゼンマイが見えていて。これを捻ってから「放」のボタンを
押すとゼンマイを巻いた分だけ“アルプスの牧場”(チロル民謡)のオルゴールが
演奏されるようになっている。
(いまではマイクの交換が進み、オルゴールの無い白いマイクが増えている)
いや、ムリにお願いした...のでは無い。この当時、米子車掌区の車掌さんは
特急でも普通でも、各駅の到着放送にオルゴールを流す車掌さんが多かった。
山陰本線では通勤列車でも放送の前後には“アルプスの牧場”が流されていた。
だから、リクエストというよりは「確認」のニュアンスが強かった。
マイクレベルを調整したら、目を閉じてヘッドフォンから聞こえてくる音に
全神経を集中させて...。心臓はバクバクである。
豪快なエンジン音、3分くらいで斐伊川鉄橋を渡る。鉄橋の上では走行音が
思いっきり反響してひときわ大きく、渡り終えて築堤を下っていくところで
オルゴールが...、終点・出雲市駅到着を告げる放送の途中で、走行音が
パッタリと止む。ちょうど、この録音の直前、出雲市駅の高架化が完成し、
高架に付け替えられた“新線”の区間に入ったから。
放送の最後に再びオルゴールが演奏され...、そのまま出雲市駅である。
【1998年3月】 一畑電鉄・遙堪-高浜
ホームは高架だが、駅舎の移転は終わっておらず、フェンスで囲まれた旧地平
ホーム部分を歩いて改札口に向かった...と旅行メモには書かれていた。
こちらは、まだ地平にあった「一畑電車」、吊り掛け車が現役で。
それを撮りに行くのが、この日の目的だった。そう、珍しく<撮り鉄>である。
…… ……
いまでは「録りたい」と思える列車も少なくなった。古い車輌は「撮りたい」
ことが多いのだが、それでも昨今の“インバウンド対策”で旧型車でも車内放送は
多言語の自動放送になっているケースが多く。それとワンマン化。
車掌さんが乗る列車が少なくなって。車内放送も噛み噛みの棒読み調の
アナウンスが増えて...。
それでも、いまもカメラバッグの中に小型のICレコーダを忍ばせているのである。
この話題、もうちょっと続くかも。いや、続かないかも。
~~ お知らせ ~~
このブログは、2020年1月15日をもって更新を終了します。
新ブログ「金失いの道ゆけば Part 2」も、よろしくお願いします。
こちら→ https://gohachinihachi1978.blog.ss-blog.jp/
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(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
あなたの「ポチッ!」こそが、励みになります。あっ、あと、「nice!」も。
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私もカセットテープ全盛期に録り鉄にはまっていたことがあります。と言っても録音機能が付いたWALKMAN(東芝製なのでWALKY)でのお手軽録音でしたが。それでも今再生すると当時の空気感まで甦って来ます。青森駅の連絡船乗り換え案内なんて涙が出ます。
by サットン (2020-01-07 19:28)
サットンさん
コメントありがとうございます。
自分もスタートは、カセットテープでした。何度も何度も聞いた思い出があるのですが...テープの方は...
そうですね。「当時の空気感」というのは、本当によくわかります。残念ながら、自分が「録り」始めたのは90年台なので、JR初期の頃からなのですが、いまでは聞くことのできないいろいろなものが出てきて、いつも懐かしく聞いてしまいます。
by ferrum_queserasera (2020-01-08 00:04)