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赤いパンツが撮りたくて(2003年 島原キハ撮影記)(1)城下町と干拓地 [アナログ写真保管庫]

昨日に引き続いて、14年前の島原鉄道キハ20形撮影記。
でも、当時の<変態鉄>の旅、最近の撮影行とはかなりテイストが違って。

ある意味、これが学生時代と社会人になってからの違いだったのかも。
いまは、兎に角、時間に追われての“出撃”となることが多く。ヒコーキで
撮影地に直行、1泊して周辺を観光するくらいなら、当日の夜のヒコーキで。

大阪でも四国でも、いざとなれば日帰り。時間に追われての撮影だから
目的の路線の目的の列車だけ撮ったら、すぐにトンボ返り。

それに比べれば、当時のスケジュールは...

現地で、天気予報を見てからプランを決定できるように、<鉄>と<非鉄>、
滞在先で“予備日”が捻出できるような余裕のあるプランづくりを心がけていた。

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【2003年5月5日】 島原鉄道線・松尾町-三会

この年、2度に渡って訪れた島原鉄道。キハ20形を撮るだけではなくて、
初訪問の日には、島原の街を歩いてみたのだった。
……  ……

2003年2月21日(金)晴れ

スタートは特急「白いかもめ6号」。

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【2000年3月頃】 長崎本線・長崎駅

当時の定番“周遊きっぷ”だったのでエリア内では短距離でも遠慮無く
特急利用だった。

でも、この当時、まさか14年後にブログで記事にするなど...

だから、「目的地」に着くまではカメラはバッグの中。幸いにも「白いかもめ」は
別の時に撮影していたのだった。

諫早では、JR駅に“間借り”した形の島鉄のりばではなく、ちょっと外に出たとき
道を尋ねたら、そのおばちゃんがクルマで送ってくれて。本諫早駅からスタート。

こちらの方が私鉄のターミナル駅に相応しいような感じの駅のつくりだったような
朧気な記憶。でも、この日の“お目当て”はキハ20形と島原の街並み。
本諫早駅の様子も、乗車した黄色いキハ2500系も一切撮っていない。

ただ、窓口で硬券入場券だけは購入していた。駅名がスタンプで入るタイプ
なのがちょっと残念だが、当時、島鉄はこのタイプの硬券入場券だった。

さて、やって来た列車は、9:58発の加津佐ゆき。キハ2551号車単行、
ワンマン運転だったと当時のメモ。島原までは1時間強の乗車時間。

有明海の広大な干拓地を見ながらの<乗り鉄>だったはず。

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「城を模したような駅舎」と当時のメモ帳に記述はあるが、硬券入場券を買った
だけで、そのまま島原城址へ向かったみたい。

島原駅からお城までは歩いてすぐだったという記述が残っている。
(まったく覚えがないのだが...)

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周囲の施設と共通の入館券には520円と書かれている。

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【2003年2月21日】 長崎県島原市城内付近・島原城

まずは天守閣から。“入城”すると窓口で無線の受信機のようなものを渡され、
イヤホンから流れてくるガイドを聞きながら歩くスタイルだったとか。
至る所に「持ち帰らないで下さい」の掲示。歴史に疎い<変態鉄>ですら
知っている、島原の乱や隠れキリシタンに関する史料の展示は興味をもって
見学したが、「他の展示は大したことなかった」とは当時のメモ。

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【2003年2月21日】 長崎県島原市城内付近・島原城

この日は快晴。天守閣5階の展望台からは「平成新山」の姿も見渡すことができた。
そう、当時は大きな犠牲を出した雲仙普賢岳の火砕流の記憶がまだ新しく、
自分にとっても、島原と言えば普賢岳のイメージだった。

城と同じ敷地の「観光復興館」も見学、その火砕流被害とそこからの復興を
記録したビデオ映像(3分)も全編見て...

  噴火災害の全貌と言うよりも、復興予算でつくったものの紹介といった感じ
  展示物も含めて観光PRくらいしかしておらず、
  内容ももう少し踏み込んだ方が良いのでは...

と、学生当時の自分、かなり生意気な感想をメモ帳に書き込んでいる。
さて、そこから向かったのは、沿線の撮影地...ではなくて「武家屋敷」。

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【2003年2月21日】 長崎県島原市下の丁付近

島田家、篠塚家、山本家を見学したとのこと。

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【2003年2月21日】 長崎県島原市下の丁付近

思っていたより質素なつくりだったこと、それと屋根が瓦葺きで無いこと、
それより何より、見学料が無料だったことに驚いていた、当時の<変態鉄>。

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【2003年2月21日】 長崎県島原市下の丁付近

武家屋敷の街並みが結構、気に入ったみたいでカメラを向けている。
白土湖の近くを通って、ずっと歩いて行くうちに南島原駅へ。

ようやく、ここからが<鉄>ブログ。

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【2003年2月21日】 島原鉄道線・島鉄本社前-南島原

15時過ぎから夕ラッシュへの送り込み運用が始まるみたいで、2両編成が。
南島原駅のすぐ北側の踏切付近が、島鉄随一の有名撮影地だった。

やって来た加津佐ゆきは、キハ2552号車の単行ワンマン。
これが、当時の島原鉄道の最もポピュラーな列車だった。駅のすぐそばとは
思えない、何だか長閑な漁村のような風景...

「そろそろキハ20形も動き出す時刻!!」
いよいよ撮影開始なのである。(つづく)

(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。

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伊豆之国

島原には、今から27年前の夏に訪れた記憶が今も鮮明に瞼に焼きついています。前夜に一泊した熊本から、バスでまず天草・本渡へ。「キリシタン館」などを見て、バスで鬼池港に出て、フェリーで口之津に。これが私の長崎県への第一歩でした。そこから島原鉄道に乗り、まず原城駅で降りて女性の委託駅長?に重いバッグを預け、「島原の乱」の戦場として名高い「原城跡」まで往復。約1時間後の次の列車に乗ったのですが、このとき列車を見送る女性駅長?の姿が印象的でした。島原駅で降り、ここで2泊。まず翌日は再び島原鉄道で諫早へ、JRに乗り継いで長崎に出て市内見物。もちろん「市電」(長崎電気軌道)にも乗り、グラバー邸、大浦天主堂など主な見所はしっかり見てきて、島原に戻り2泊目。次の朝に島原の町歩き、島原城や、写真に出ている武家屋敷のいくつかも見て回っています。そして今度はバスで雲仙温泉に出て、「地獄」見物や「立ち寄り湯」をしてきて、バスでまたも諫早に出て、この道中で九州最後の宿を取った博多に向かったのですが、時間に余裕があったので、臨時急行で三田川(現・吉野ヶ里公園)駅で降り、まだ世に知られて間もなかった「吉野ヶ里遺跡」を見てきたのでした(それにしてもまだ若かりし頃、今から見ると大変な健脚&強行軍…)。
雲仙・普賢岳が噴火したのは、その翌年。島原鉄道も南側で長期運休を強いられ、何とか復旧はしたものの結局路線の維持ができず廃線の憂き目に会ってしまったのは、それこそまさに災難でした。絶景で知られた路線だっただけに、本当に残念な結末になってしまいました…。島原の市街地からは、前に聳える「眉山」があるために普賢岳は見ることができず、またその「眉山」が格好の「防壁」となって、風情のある中心市街が焼け野原にならずに済んだのは、「不幸中の幸い」だったのかもしれません…。
by 伊豆之国 (2017-08-12 20:35) 

あるまーき

伊豆の国さん

コメントありがとうございます。
自分は高校生のとき、長崎電軌を撮りに行ったときにグラバー園などを見学しました。キハの撮影効率だけを考えていたので、加津佐まで乗り通したのは、たった一度だけになってしまって。この頃、すでに島原外港以遠の区間についてはクルマでないと撮影効率が...という状況で、しかもワンマン運転可能な新型車が中心になっており。鉄道誌でいろいろな写真を見てからの訪問だったのですが、でも、キハ20が来ない...ということで後回しにしてしまったままになったのが悔やまれます。いまでは、残された諫早-島原間でも減便が続いているようで、寂しい限りです。当時の島原鉄道、駅員さんが勤務している駅が多かったような気がします。
回収済みの乗車券を特別にいただいたり、撮影したいと言ったら、使われなくなったホームへの立ち入りを許可してくれたり、島鉄本社前とか島原外港とか...駅員さんに親切にしていただいたこともいまも覚えています。
ちょっと間が空きそうですが、このシリーズ、続きをアップしていきたいと思いますので、ご覧頂ければ幸いです。

by あるまーき (2017-08-12 23:28) 

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