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茨城にキハを追ったこと(97年GWの“いばこう”) [アナログ写真保管庫]

先日、倉敷に撮りに訪れたキハ20、先週限りでその役割を終えた。
このキハ20という形式、いすみ鉄道で頑張っているキハ52と同じグループの
ディーゼル動車。ファンの間では「キハ20系気動車」と呼ばれる。

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【2014年4月23日7時22分】 水島臨海鉄道水島本線・球場前-倉敷市
<撮影データ>
Canon EOS 5D Mark III/EF28-300mm f/3.5-5.6L IS USM
焦点距離 135.0 mm 露出 F8.0 1/800秒 ISO400
マニュアル露出 マニュアルフォーカス WB太陽光 三脚使用

その先輩格にあたるのが「キハ10系気動車」と呼ばれるグループ。
他のディーゼル動車に比べて、屋根が浅くて背が低く、座席も肘掛けがない...など
徹底的に“簡素”な車両だった。

<変態鉄>が全国に撮り歩き、乗り歩くようになった当時、キハ20系気動車は
2基エンジンのキハ52を中心に、JR線でも乗車する機会が何度もあったのだが、
キハ10系となると...、昭和30年台はじめには製造が終了していた車両なので、
平成一ケタの頃でもすでに車齢は40年を越えており、JR線はおろか私鉄の譲渡車も
ほとんど姿を消した後だった。

そんな「キハ10系気動車」に、たった一度だけ乗車する機会があった。
17年前、1997年のこどもの日のことである。

……  ……

1997年5月5日 晴れ

まさに五月晴れとなったこの日、<変態鉄>は上野駅に向かった。
当時は“当たり前”だった485系ボンネット車の常磐線特急「ひたち103号」で勝田へ。
連休中にもかかわらず、自由席もガラガラで、車内録音に挑戦したので記憶も鮮明。
上野から日暮里まで特急「あさま」と並走状態だったのも覚えている。

さて、終点・勝田で降りて...

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この駅から分岐し、海水浴客で賑わったという阿字ヶ浦までを結ぶ
茨城交通湊線に乗り換えた。
この日の目的は、“茨交”に残ったキハ11の走行シーンの撮影だった。
1日乗車券を買って、阿字ヶ浦ゆきに乗って撮影開始。

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“乗りつぶし”も兼ねて阿字ヶ浦まで行きたかったが、最初に下車して撮影したのは
中根駅近くの水田地帯だったと記憶している。

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【1997年5月5日】 茨城交通湊線・中根駅付近(?)

この3両編成の最後尾、朱色とクリームの「国鉄一般気動車色」に塗られたキハが
キハ112号車、旧国鉄キハ11 19号車である。

この写真、よ~~く、ご覧いただきたい。
2両目、中間に居るのがキハ22形、国鉄キハ22と同一仕様の羽幌炭礦鉄道の自社発注車。
その連結部分を見ると、2両目のキハの方が車高が高く、寸法も一回り大きい。

つまり、それだけキハ10系が小ぶりな車両だったと言うこと。
<変態鉄>が惹かれずには居られなかったのは、その細身のボディーが織りなす、
後に製造された他形式車とのアンバランスぶり。

「なぜ、そんなに小さい車体にしたの??」

キハ10系は1953年(昭和28年)に製造が開始されたディーゼル動車たちのグループ。
国鉄のディーゼル車開発は、戦時中の中断期を挟んで、苦戦を強いられていた。
特に鉄道車両に適した液体変速機の開発が困難を極めたという。

結局、戦前のガソリンエンジンの設計を引き継いだ、DMH17系エンジンを昭和40年台まで
“標準品”として使い続けることになった。
ここで問題となったのは、エンジンの非力さ。

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【1997年5月5日】 茨城交通(当時)・キハ112車内

狭い車内、肘掛けを省略した背の低いボックスシート...

電気で走る電車や、強力な機関車が引っぱってくれる客車と違って、
非力なエンジンを床下に備えたディーゼル車では、車体を大きく立派なものにすれば
その車体の重みに、足回りが耐えられなくなってしまう...
苦肉の策で、車体を徹底的に簡素な設計にしたのである。

そして、生まれたのがキハ10系。1953年(昭和28年)から約4年間にわたって、
700両が全国の非電化路線に配置された。いくら簡素な設計の車内であれ、
蒸気機関車の牽く客車列車だけの当時、“無煙化”は歓迎されたという。

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【1997年5月5日】 茨城交通湊線・那珂湊駅構内

でも、昭和20年台末頃から、戦後復興が一段落すると右肩上がりの経済情勢に応じて、
輸送力を上げるため、国鉄では車両軽量化の技術開発が本格化。
その結果、エンジンはDMH17系のままでも、客車なみの車体で、
十分な走行性能を確保できるようになった。これにより、車体寸法をひろげ、
時には急行列車にも充当可能な車内設備を設けたキハ20系に、
移行することになったのである。

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【1997年5月5日】 茨城交通湊線・中根駅付近(?)

勝田から折り返して来る阿字ヶ浦ゆきは、少し線路から下がった田んぼの畦道で
迎え撃った。“平凡な走行写真”と思いきや、コレ、当時の<変態ガキ鉄>には
“ガッツポーズの出るような1枚”だったのである。
ただ、ガッツポーズは現像が終わったフィルムとプリントを受け取った帰り道だが。

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【1997年5月5日】 茨城交通湊線・中根駅付近(?)

去りゆく列車を後追いで必死になって撮るのは、当時もいまも変わらない。
キハ11+羽幌キハ22+茨交キハ3710系という何とも言えないチグハグ編成。
この統一感のなさこそが、気動車列車の魅力でもある。

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【1997年5月5日】 茨城交通湊線・撮影地不詳

あとは、あまりハッキリした記憶が残っていない。
どこかの駅間を歩きながら、やって来た単行キハをスナップ。
キハ222というゾロ目ナンバーは、先ほど、中根駅近く(だと思う)の田んぼで撮った
3両編成の中間車の僚車。国鉄キハ22のソックリさんには違いないが、羽幌の特徴は
前面窓に付けられた旋回窓(豪雪地域の機関車などにワイパーのかわりとして見られる)。

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【1997年5月5日】 茨城交通湊線・阿字ヶ浦駅

カメラが傾いていて、お見苦しい限りだが、終点・阿字ヶ浦駅でもあの3連を
スナップしていた。この阿字ヶ浦駅、しばらく前に移転してしまい、いまでは
海水浴客で賑わった時代の広い構内...ではないらしい。

……  ……

さて、茨城交通の鉄道輸送の拠点となっていたのは、中間の那珂湊駅。

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【1997年5月5日】 茨城交通湊線・那珂湊駅構内

雰囲気の良い、木造機関庫の前で待機しているのは、ケキ102ディーゼル機関車。
これが、なぜか「ディーゼル車を牽引して走る」というのが、この日のメインイベント
だったような...

それにしても、いま、ネガを見直してみると、この機関庫周辺を全然撮っていない。
何を考えていたんだか...、当時の自分。

とは、言いつつも、こんなのはちゃんと撮っている。
そう、地方私鉄の車庫の裏と言えば貴重な廃車体の宝庫、そういうのは
ちゃんと記録しているのが、<変態鉄>の“立派な変態ぶり”。

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【1997年5月5日】 茨城交通湊線・那珂湊駅構内

1960年に新潟鐵工所で新製された日本初のステンレス気動車ケハ601、
廃車となり、当時、すでに足回りはなく車体だけ地面に置かれた状態だったが
普通鋼製の車体と違って、痛みにくいのが幸いしたのか、いまも健在と聞く。

当時は、倉庫代用(?)で放置状態。

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【1997年5月5日】 茨城交通湊線・那珂湊駅構内

こちらはキハ1103、すでに廃車となっていたが、側面はキハ20系風でも、
“顔”は見事な湘南スタイル。当時の国鉄型気動車よりもオシャレなデザインは
留萌鉄道からの移籍車。

留萌鉄道のディーゼル動車の特徴でもあったのが、オデコのヘッドライトの両脇に
2つ並んだタイフォン。

よ~~く目を凝らして見てみると、2枚上の写真。
ディーゼル機関車の後ろにいる“茨交色”のキハ、国鉄のキハ22形かと思いきや
こちらにも同様の特徴が見られる。留萌鉄道出身のキハ2000型だ。
そんなことに気づいたのは、この記事を書くのにあたって写真を整理していたとき。
17年前の<変態ガキ鉄>は「キハ22モドキばかりだなぁ~」程度の認識だった。

……  ……

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【1997年5月5日】 茨城交通湊線・撮影地不詳

そんな希少車の宝庫、最後はキハ3連をディーゼル機関車が牽引して走るという
謎のイベント列車を軽く駅撮りして勝田に戻り、
上野ゆきの普通電車に乗り込むのだった。

時は流れ、紆余曲折を経て、茨城交通湊線は“ひたちなか海浜鉄道”として再出発。
すでにキハ11型の姿はないものの、留萌出身のキハなどは、まだ残っているという。
上野から特急に乗れば1時間半、また、那珂湊の町を訪れてみたいと思っている。

この1週間後には、「赤カエル」を撮りに岳南鉄道に出撃している(→ こちら)。
当時、インターネットなんて一般的なものではなかった。
その頃の<変態鉄>、いまよりも遥かに新鮮な気持ちで被写体に接していたような...
今では撮らなくなった幹線筋の特急列車から、こうした懐かしさを感じさせる地方私鉄まで、
いろいろな鉄道情景を撮っていた時代の思い出話。

(※)撮影地など記録も記憶も残っていないため、不確かな記述が含まれています。
茨交、改め“ひたちなか”にお詳しい方、撮影地や車両に関して、お気づきの点など
ありましたら、コメント欄にお願いいたします。撮影は全て1997年5月5日。

(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。

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suzuran6

北海道の炭鉱系の鉄道、昔は儲かっていたんですよ、国鉄でも借金でDCを作っていた時代に自社発注ですものね。
最後には身売りしてしまいましたが・・・
by suzuran6 (2014-05-16 19:21) 

あるまーき

suzuran6さん

コメントありがとうございます。
仰るように運炭鉄道は、戦後のエネルギー転換が進むまで、非常に賑わっていたようですね。気動車だけでなく、国鉄制式の蒸気機関車を新製した所もあったようですし。たしか、このほかに夕張鉄道のキハも同じ茨城県の鹿島鉄道に来ていた気がします。
留萌、羽幌、夕張、など道産子キハたちが揃って茨城県の私鉄で余生を送ったのも何だか不思議な縁のようなものなのでしょうか...
by あるまーき (2014-05-16 23:51) 

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