紅白の丸窓電車、最後の日々 <前編> [スカーレットのトラムたち[名鉄岐阜線]]
“電車好きの子ども”だった<変態鉄>、生まれて初めて「この路線が撮りたい」
「この電車が撮りたい」と、狙いを持って、そしてカメラを提げて線路際に立った
のは、岐阜の町を起点に、東西の街々を結んだ名鉄岐阜線、600V線と呼ばれた、
路線群だった。1991年の夏休みに初めて撮ったこの路線、残念ながら2005年3月末で
全廃となることが発表され。
【2005年2月頃】 名鉄揖斐線(当時)・忠節駅
当時、いろいろ事情があって大学生だった<変態鉄>、バイトで貯めたおカネ...
毎週のように、大学の休みを狙っては早朝の「のぞみ」で岐阜に向かう日々が。
その中でも、特に<変態鉄>にとって“憧れ”でもあり、でも、何度撮りに行っても
当時の自分の、いまより遙かに拙い撮影技術では、満足に姿写真を撮ることも
できなかった、そんな電車が、名鉄岐阜線の前身でもあった美濃電セミボ510形。
前面が円形になった5枚窓の電車、戸袋窓は楕円形になった半流線型電車。
ぬぁんと、1926年(大正15年)の製造以来、2005年(平成17年)の岐阜線全廃まで
その姿を大きく変えること無く、岐阜の街を走り続けた電車だった。
そんな電車が廃線前、“最後の里帰り”になるかも知れない...と言われたのが
2月、某大学の鉄道研究会による団体臨時電車だった。
ネット掲示板の情報を参考に、前日のうちに岐阜市内に入って。
…… ……
いろいろ調べてみたのだが、当時はメモも取る習慣が無く、いまのようにブログを
書く資料として乗車券類などを保管したりする習慣も無く。
残念ながら、この臨時運転が行われた日付は確認することができなかったが、
2月だったように思う。
岐阜駅から柳ヶ瀬に向かう途中にある某ビジネスホテルを予約して。
前日から、あちこち歩き回って。
【1991年10月22日】 名鉄揖斐線・尻毛-旦ノ島(当時)
岐阜市の中心部を起点に線路は東西に延びていた。長良川の川岸に近い忠節駅を
経て、田園地帯を西へ西へと進んでいくのが揖斐線だった。駅も線路も“時間の
流れが止まったような”という言い方がピッタリするような鉄道情景が広がって
いたのも印象的だった。まさに<変態鉄>の趣味活動の方向性を決めてくれた
“原点”たる路線である。
当時、本揖斐、谷汲方面の線路は一足先に廃線となっていて、黒野が終着駅。
車庫が併設されており、揖斐線所属の電車はこの駅に隣接する車庫に居た。
【2005年2月頃】 名鉄揖斐線(当時)・黒野駅
図々しくも車庫にいる名鉄職員の方に声をかけて「明日、モ510形が団体電車で
走ると聞いたのですが...」とダイヤを聞いてしまったのである。
ご多分に漏れず、当時すでに一部の<鉄>の非常識な行為もあって、
(自分の図々しさも大概だが...)
鉄道会社の職員と<撮り鉄>の関係性というのは、必ずしも良いものでは無かった。
他所でもよくあるのだが、団体貸切というのは、当然、一般客は乗れないので
時刻表には非掲載。だからこそ、団体側の都合などで直前になって大幅に内容が
変更されたり、場合によっては「全行程設定取り消し」なんていう場合もある。
(もちろん、多客臨時列車と違って、そんなこと一般に公表もされない)
そんなこと、<鉄>なら誰でも知っているはずなのだが、そうなってしまったとき、
ご厚意でダイヤを教えてくれた鉄道会社側に、苦情を言うような<鉄>が一定数
いることが言われており。こういう場合、仮にダイヤを尋ねても
「走る予定はありません」か「教えられません」か、どちらかなのが
当たり前だった。でも、このとき、ぬぁんと...黒野駅の職員の方に運転予定を
教えていただけた...と朧気な記憶。
【2005年2月頃】 名鉄揖斐線(当時)・黒野駅
でも、お目当てのモ510形電車に会うことはできず。代わりにホームにはホキ車が
留置されていた。富山地鉄とほぼ同じ、でも、あちらは牽引機として「デキ」が。
名鉄岐阜線はどうしていたのだろうか!? モーターカー牽引だったのか、あるいは
電車が牽引して走っていたのか?? いまなら「工臨」を撮ろうと頑張るはずだが...
当時のモ510形は、新岐阜駅前から忠節を経て揖斐線・黒野へと至る系統の予備車
となっていた。でも、翌日の臨時電車では美濃町線での運転となっていた。
モ510形は、大正末期の製造から数年間、当時の笠松線を走り、その後、美濃町線に
転属、昭和40年台の岐阜市内線・揖斐線直通運転開始に合わせて揖斐線に所属替え
になっている。つまり、美濃町線はモ510形にとって“車生”の前半を過ごした
路線と言うことになるわけで。「廃線前の最後の“里帰り”」などとも言われた。
美濃町線方面の電車は岐阜市の中心部の少し東側、市ノ坪にあった車庫にいる。
前日、つまりこの日のうちに“送り込み回送”があるようで...
…… ……
でも、それは夜のこと。まずは美濃町線沿線を歩き回って。
その名鉄美濃町線というのが、ちょっと複雑な路線なのである。
岐阜市の中心に位置した繁華街・徹明町の交差点から昔ながらの電車通りを西進し、
国道156・248号線と寄り添うように走る単線の路線だった。
「路面電車」というと中心市街地を走るイメージだが、競輪場前電停を出た
あたりからは、ノンビリした風景が広がっており。
当時は、刀鍛冶で有名な関市までを結ぶ、全長18キロあまりの区間が残っていた。
でも...
【2005年2月頃】 名鉄各務原線・名鉄岐阜-田神
名鉄ターミナル駅、「新岐阜駅」(当時=現在の名鉄岐阜駅)への乗り入れのため
競輪場前から南下する車庫線を岐阜から鵜沼・犬山方面に向かう各務原線に接続、
「田神線」を介して、新岐阜駅に乗り入れるようになっていて、<変態鉄>が
岐阜の真紅の路面電車を撮るようになった90年台には、田神線経由が主流、
本来の美濃町線、徹明町-競輪場前間は“枝線”的な位置づけだった。
【2005年2月頃】 名鉄名古屋本線・名鉄岐阜駅
写真は名古屋本線のホームで撮ったのだが、このパノラマカー(たぶん7500系)も
あの小さな車体の路面電車と同じ線路を並走するのが日常的に見られた。
ちなみに路面電車の架線電圧は600V、鉄道線は1500V、車体の大きさも違って、
軌間は同じであっても簡単には乗り入れられず。小型の路面電車に「複電圧対応」
の車両を開発してしまった、昭和の頃の「名鉄」の技術力というのは...
【2005年2月頃】 名鉄田神線(当時)・市ノ坪駅
そんな市ノ坪車両基地も車窓から眺めることはあったが、撮りに来たのは
最初で最後のことだった。市ノ坪駅は美濃町線線用の低いホームだけの小さな駅。
日中に市ノ坪駅に降り立てば、市内線と美濃町線の電車を眺めることができた。
正面に見えるスカーレットに白帯の妙にスリムな電車が「元祖・複電圧車」、
“馬面電車”の600形。岐阜市内の狭い街路、徹明町交差点の急カーブに対応させる
ため、車体幅を絞っており。冷房化が困難で末期には最初に淘汰されてしまった。
1両だけ残っており、廃線後は美濃駅跡で保存されている。
そのモ601号車の後ろに隠れているのが、美濃町線の主力・モ880形。廃止後には
(当時)資本関係にあった福井鉄道へと移動していまも活躍中。
そして、右側に居るのが美濃町線の区間運用に使われていたモ590形。
当時、かなり古い電車だったのだが...、もっと経年の若い電車を差し置いて
名鉄での引退後は土佐電(現在の「とさでん交通」)に引き取られた。
いまも、スカーレットの塗色のままで高知市内を走っているはず。
当時は「邪魔だ!!」と位にしか思わなかったはずだが、真ん中に見える架線柱が
木製なのも堪らなく渋い。
【2005年2月頃】 名鉄美濃町線(当時)・野一色-北一色(?)
そんな情景を眺めながら、とにかく沿線を歩いて、翌日のモ510形臨時電車を
どこで撮るべきか...、あれこれ悩んだのだった。
…… ……
路面電車撮影に三脚は使えないはず。でも、なぜだか当時の<変態鉄>、岐阜まで
三脚を担いで言っていたみたい。
<変態鉄>は学生時代、「鉄研」みたいな<鉄>系の団体に属したことも無く、
写真も「写真部」とか何かのスクールとか...、何かに所属して、きちんと教えを
受けたわけではなく。すべて“自己流”、当時から単独行動を好むタイプだった。
いまのようにネットが普及していたわけでもなく、写真の撮り方だって試行錯誤で
学ぶしか無かった。
そんな<変態鉄>、本の中にある駅ホームでの夜間撮影は、三脚にカメラを据えて
長時間露光で撮っている...ということを、この頃、初めて知ったのだった。
そう、俗にいう“バルブ撮影”。当時、<変態鉄>は夜のホームで撮るときは
遠慮無くストロボを使っていた。いま考えると相当な<ダメ鉄>である。
ということで...
【2005年2月頃】 名鉄岐阜美濃町線(当時)・競輪場前電停
スカーレットのモ590形を撮るべく、訪れたのは競輪場前電停。
デジカメとは違って、現像するまで撮った写真は見られないのが当時のカメラ。
フィルム1本近く撮り続けたが、手ブレと露出アンダーで真っ暗な写真ばかり。
(当時、三脚を使うことは知っていても“レリーズスイッチ”など名前すら...)
もう、メチャクチャな写真である。
そして、満を持して、向かった先は忠節駅だった。なぜか自分以外に<鉄>を
見かけることは無く。
【2005年2月頃】 名鉄揖斐線(当時)・忠節駅
夜の帳が下りた、市内ハズレのターミナル駅にやって来た回送電車。
揖斐線から市内線に入るはずだが、いったん、揖斐線の頭端ホームへ。
その様子を必死に撮ったのが、冒頭の1枚である。
運転士さんと車掌さんはいったん降りて、駅舎に入って休憩していたはずだから
長時間停車だったはず。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線(当時)・忠節駅
転線して市内線直通のホームに入り、そして夜の岐阜の繁華街へと向かっていく
のだった。ヘッドライトの光を拾ってしまって...
当時はそんなこと考えることすらできず。もう無我夢中だった。
…… ……
いよいよ、モ510形の臨時運転。
【2005年2月頃】 名鉄美濃町線(当時)・白金駅
朝早く起きて、<変態鉄>は美濃町線沿線に向かうのだった。(つづく)
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
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「この電車が撮りたい」と、狙いを持って、そしてカメラを提げて線路際に立った
のは、岐阜の町を起点に、東西の街々を結んだ名鉄岐阜線、600V線と呼ばれた、
路線群だった。1991年の夏休みに初めて撮ったこの路線、残念ながら2005年3月末で
全廃となることが発表され。
【2005年2月頃】 名鉄揖斐線(当時)・忠節駅
当時、いろいろ事情があって大学生だった<変態鉄>、バイトで貯めたおカネ...
毎週のように、大学の休みを狙っては早朝の「のぞみ」で岐阜に向かう日々が。
その中でも、特に<変態鉄>にとって“憧れ”でもあり、でも、何度撮りに行っても
当時の自分の、いまより遙かに拙い撮影技術では、満足に姿写真を撮ることも
できなかった、そんな電車が、名鉄岐阜線の前身でもあった美濃電セミボ510形。
前面が円形になった5枚窓の電車、戸袋窓は楕円形になった半流線型電車。
ぬぁんと、1926年(大正15年)の製造以来、2005年(平成17年)の岐阜線全廃まで
その姿を大きく変えること無く、岐阜の街を走り続けた電車だった。
そんな電車が廃線前、“最後の里帰り”になるかも知れない...と言われたのが
2月、某大学の鉄道研究会による団体臨時電車だった。
ネット掲示板の情報を参考に、前日のうちに岐阜市内に入って。
…… ……
いろいろ調べてみたのだが、当時はメモも取る習慣が無く、いまのようにブログを
書く資料として乗車券類などを保管したりする習慣も無く。
残念ながら、この臨時運転が行われた日付は確認することができなかったが、
2月だったように思う。
岐阜駅から柳ヶ瀬に向かう途中にある某ビジネスホテルを予約して。
前日から、あちこち歩き回って。
【1991年10月22日】 名鉄揖斐線・尻毛-旦ノ島(当時)
岐阜市の中心部を起点に線路は東西に延びていた。長良川の川岸に近い忠節駅を
経て、田園地帯を西へ西へと進んでいくのが揖斐線だった。駅も線路も“時間の
流れが止まったような”という言い方がピッタリするような鉄道情景が広がって
いたのも印象的だった。まさに<変態鉄>の趣味活動の方向性を決めてくれた
“原点”たる路線である。
当時、本揖斐、谷汲方面の線路は一足先に廃線となっていて、黒野が終着駅。
車庫が併設されており、揖斐線所属の電車はこの駅に隣接する車庫に居た。
【2005年2月頃】 名鉄揖斐線(当時)・黒野駅
図々しくも車庫にいる名鉄職員の方に声をかけて「明日、モ510形が団体電車で
走ると聞いたのですが...」とダイヤを聞いてしまったのである。
ご多分に漏れず、当時すでに一部の<鉄>の非常識な行為もあって、
(自分の図々しさも大概だが...)
鉄道会社の職員と<撮り鉄>の関係性というのは、必ずしも良いものでは無かった。
他所でもよくあるのだが、団体貸切というのは、当然、一般客は乗れないので
時刻表には非掲載。だからこそ、団体側の都合などで直前になって大幅に内容が
変更されたり、場合によっては「全行程設定取り消し」なんていう場合もある。
(もちろん、多客臨時列車と違って、そんなこと一般に公表もされない)
そんなこと、<鉄>なら誰でも知っているはずなのだが、そうなってしまったとき、
ご厚意でダイヤを教えてくれた鉄道会社側に、苦情を言うような<鉄>が一定数
いることが言われており。こういう場合、仮にダイヤを尋ねても
「走る予定はありません」か「教えられません」か、どちらかなのが
当たり前だった。でも、このとき、ぬぁんと...黒野駅の職員の方に運転予定を
教えていただけた...と朧気な記憶。
【2005年2月頃】 名鉄揖斐線(当時)・黒野駅
でも、お目当てのモ510形電車に会うことはできず。代わりにホームにはホキ車が
留置されていた。富山地鉄とほぼ同じ、でも、あちらは牽引機として「デキ」が。
名鉄岐阜線はどうしていたのだろうか!? モーターカー牽引だったのか、あるいは
電車が牽引して走っていたのか?? いまなら「工臨」を撮ろうと頑張るはずだが...
当時のモ510形は、新岐阜駅前から忠節を経て揖斐線・黒野へと至る系統の予備車
となっていた。でも、翌日の臨時電車では美濃町線での運転となっていた。
モ510形は、大正末期の製造から数年間、当時の笠松線を走り、その後、美濃町線に
転属、昭和40年台の岐阜市内線・揖斐線直通運転開始に合わせて揖斐線に所属替え
になっている。つまり、美濃町線はモ510形にとって“車生”の前半を過ごした
路線と言うことになるわけで。「廃線前の最後の“里帰り”」などとも言われた。
美濃町線方面の電車は岐阜市の中心部の少し東側、市ノ坪にあった車庫にいる。
前日、つまりこの日のうちに“送り込み回送”があるようで...
…… ……
でも、それは夜のこと。まずは美濃町線沿線を歩き回って。
その名鉄美濃町線というのが、ちょっと複雑な路線なのである。
岐阜市の中心に位置した繁華街・徹明町の交差点から昔ながらの電車通りを西進し、
国道156・248号線と寄り添うように走る単線の路線だった。
「路面電車」というと中心市街地を走るイメージだが、競輪場前電停を出た
あたりからは、ノンビリした風景が広がっており。
当時は、刀鍛冶で有名な関市までを結ぶ、全長18キロあまりの区間が残っていた。
でも...
【2005年2月頃】 名鉄各務原線・名鉄岐阜-田神
名鉄ターミナル駅、「新岐阜駅」(当時=現在の名鉄岐阜駅)への乗り入れのため
競輪場前から南下する車庫線を岐阜から鵜沼・犬山方面に向かう各務原線に接続、
「田神線」を介して、新岐阜駅に乗り入れるようになっていて、<変態鉄>が
岐阜の真紅の路面電車を撮るようになった90年台には、田神線経由が主流、
本来の美濃町線、徹明町-競輪場前間は“枝線”的な位置づけだった。
【2005年2月頃】 名鉄名古屋本線・名鉄岐阜駅
写真は名古屋本線のホームで撮ったのだが、このパノラマカー(たぶん7500系)も
あの小さな車体の路面電車と同じ線路を並走するのが日常的に見られた。
ちなみに路面電車の架線電圧は600V、鉄道線は1500V、車体の大きさも違って、
軌間は同じであっても簡単には乗り入れられず。小型の路面電車に「複電圧対応」
の車両を開発してしまった、昭和の頃の「名鉄」の技術力というのは...
【2005年2月頃】 名鉄田神線(当時)・市ノ坪駅
そんな市ノ坪車両基地も車窓から眺めることはあったが、撮りに来たのは
最初で最後のことだった。市ノ坪駅は美濃町線線用の低いホームだけの小さな駅。
日中に市ノ坪駅に降り立てば、市内線と美濃町線の電車を眺めることができた。
正面に見えるスカーレットに白帯の妙にスリムな電車が「元祖・複電圧車」、
“馬面電車”の600形。岐阜市内の狭い街路、徹明町交差点の急カーブに対応させる
ため、車体幅を絞っており。冷房化が困難で末期には最初に淘汰されてしまった。
1両だけ残っており、廃線後は美濃駅跡で保存されている。
そのモ601号車の後ろに隠れているのが、美濃町線の主力・モ880形。廃止後には
(当時)資本関係にあった福井鉄道へと移動していまも活躍中。
そして、右側に居るのが美濃町線の区間運用に使われていたモ590形。
当時、かなり古い電車だったのだが...、もっと経年の若い電車を差し置いて
名鉄での引退後は土佐電(現在の「とさでん交通」)に引き取られた。
いまも、スカーレットの塗色のままで高知市内を走っているはず。
当時は「邪魔だ!!」と位にしか思わなかったはずだが、真ん中に見える架線柱が
木製なのも堪らなく渋い。
【2005年2月頃】 名鉄美濃町線(当時)・野一色-北一色(?)
そんな情景を眺めながら、とにかく沿線を歩いて、翌日のモ510形臨時電車を
どこで撮るべきか...、あれこれ悩んだのだった。
…… ……
路面電車撮影に三脚は使えないはず。でも、なぜだか当時の<変態鉄>、岐阜まで
三脚を担いで言っていたみたい。
<変態鉄>は学生時代、「鉄研」みたいな<鉄>系の団体に属したことも無く、
写真も「写真部」とか何かのスクールとか...、何かに所属して、きちんと教えを
受けたわけではなく。すべて“自己流”、当時から単独行動を好むタイプだった。
いまのようにネットが普及していたわけでもなく、写真の撮り方だって試行錯誤で
学ぶしか無かった。
そんな<変態鉄>、本の中にある駅ホームでの夜間撮影は、三脚にカメラを据えて
長時間露光で撮っている...ということを、この頃、初めて知ったのだった。
そう、俗にいう“バルブ撮影”。当時、<変態鉄>は夜のホームで撮るときは
遠慮無くストロボを使っていた。いま考えると相当な<ダメ鉄>である。
ということで...
【2005年2月頃】 名鉄岐阜美濃町線(当時)・競輪場前電停
スカーレットのモ590形を撮るべく、訪れたのは競輪場前電停。
デジカメとは違って、現像するまで撮った写真は見られないのが当時のカメラ。
フィルム1本近く撮り続けたが、手ブレと露出アンダーで真っ暗な写真ばかり。
(当時、三脚を使うことは知っていても“レリーズスイッチ”など名前すら...)
もう、メチャクチャな写真である。
そして、満を持して、向かった先は忠節駅だった。なぜか自分以外に<鉄>を
見かけることは無く。
【2005年2月頃】 名鉄揖斐線(当時)・忠節駅
夜の帳が下りた、市内ハズレのターミナル駅にやって来た回送電車。
揖斐線から市内線に入るはずだが、いったん、揖斐線の頭端ホームへ。
その様子を必死に撮ったのが、冒頭の1枚である。
運転士さんと車掌さんはいったん降りて、駅舎に入って休憩していたはずだから
長時間停車だったはず。
【2005年2月頃】 名鉄岐阜市内線(当時)・忠節駅
転線して市内線直通のホームに入り、そして夜の岐阜の繁華街へと向かっていく
のだった。ヘッドライトの光を拾ってしまって...
当時はそんなこと考えることすらできず。もう無我夢中だった。
…… ……
いよいよ、モ510形の臨時運転。
【2005年2月頃】 名鉄美濃町線(当時)・白金駅
朝早く起きて、<変態鉄>は美濃町線沿線に向かうのだった。(つづく)
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
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なつかしいかぎりです。
私はじいちゃんの墓が谷汲線の沿線にあったことから、新岐阜駅前の電停からモ510に乗って墓参りに出かけたことが何度かありました。
昭和50年代のモ510は赤一色で、モ520と組んだ急行が谷汲行と本揖斐行とで交互に出発していたように記憶しております。
by skekhtehuacso (2018-10-09 22:00)
skekhtehuacsoさん
コメントありがとうございます。
自分が撮るようになった頃には、すでにモ520形はなく、モ510形も紅白塗装で夕方に1往復の定期運用を持っていたかと思います。
揖斐線も谷汲線も沿線のロケーションが素晴らしく。
もう少し撮っておけば...と悔やまれるのです。
by ferrum_queserasera (2018-10-09 23:12)
「憧れ」というのはちょっと変ですが自分も名鉄の古い電車に乗ってみたいと思っていたんですが、電車から興味が薄れていたり子供とか仕事とかで忙しくしてた間にいつの間にかなくなっちゃったんですよね。
なので、興味深く読み進めていったらいいところで前半が終わってしまったので、後半楽しみにしてます!
by えすぷれそ (2018-10-10 22:37)
えすぷれそさん
コメントありがとうございます。
書いている側として、とても励みになるお言葉、恐縮です。
ネガをスキャナーで取り込みながらの記事になりますので、
書きたい話はあっても、なかなか進んでおりません。
近々、続編を少しずつ書いていきたいと思いますので、
また、ご感想など寄せていただければ幸いです。
by ferrum_queserasera (2018-10-10 23:24)