京津線が緑色だった頃(2)そして、大津。 ['90sのトラムたち]
今日の話題に入る前に。
昨日の記事で触れた福井鉄道福武線。<変態鉄>にとって福井鉄道と言えば、
連接車200形電車だった。1960年(昭和35年)頃に製造された電車は、
路面電車ながら、車内には4人掛けボックスシートが並び、何だか旧型国電のような。
「昭和の電車」の風情がよく残っている。こんなのが、いまも福井の中心街の
目抜き通りをゴロゴロと走っているのだから...
う~ん、タマランチ会長。(johncomebackさんの影響か??)
【2013年10月29日13時29分】 福鉄福武線・越前武生駅
この車両、201から203まで、3本あったのだが、このうち201が廃車解体されたとのこと。
福井鉄道の、会社の公式ツイッター(→ こちら)に西武生(?)での解体作業の様子と
ともに「長い間本当にお疲れ様でした」とのこと。
50年以上前、新車として導入されたときの「夢の急行列車」として紹介された
公式パンフとともに貴重な写真も紹介されている。
自分が撮りに行ったときも、最近では、202と203ばかりが稼動して201は休んでいる
ことが多かった。解体されてしまった201は、最後まで満足な写真が撮れなかったが、
残る202、203を撮りに行きたい。
さて、話は飛んでイスタンブール。(← ホントにすみません)
…… ……
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・日ノ岡電停
これほど“思い出の路線”などと曰いつつ、実は全線を乗り通したのは、
たった一度だけだった。当時、トラムに嵌っていた自分。
実は、蹴上以東の区間にも魅力的な情景は展開されていたのだが、当時のガキは、
「路面上を走る区間で撮らないとトラムを撮る意味など無い!!」
「京都市街地から離れると往復の運賃が負担になる!!」
何とも勿体ないことをしたわけである。
京都から山科を経て、逢坂山をトンネルで抜けて大津の町に至るこの路線、
京津三条-蹴上、上栄町-浜大津の両端部以外に、日ノ岡付近も道路併用区間が
あった。昨日の記事では京津三条-蹴上の模様をご紹介したので、今日は他の2箇所の
路面併用区間の写真を中心に。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・日ノ岡電停付近
蹴上を出てしばらく、日ノ岡電停付近で再び三条通の真ん中に戻ってくる。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・日ノ岡電停
その日ノ岡電停は道路中央の狭いホームから乗り込む、まさに「路面電車」の停留所。
ここでの電車の乗り降りは、クルマの往来の激しい三条通を横切って、
素早くホームに移動する必要があった。
80型電車には、こうした道路上にある低いホームからの乗降に対応できるように
扉下にステップが設置されていた。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・日ノ岡電停
ちなみに、ホームは道路中央にあるが電車を待つ間は、この“駅舎”で。
いま写真をよく見てみれば、隣の畳屋さんもなかなか良い感じ。
そういった街並みも配した写真を撮っておけば良かったのだが...
当時の<ガキ鉄>にそこまで考えるアタマはなかった。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・日ノ岡電停
さて、当時の京津線。日中は80型の普通電車と600・700型の準急電車が交互に走る
ダイヤになっていた。600型、700型は京阪電車の標準色を纏い、
同じ型式であっても車体の造られた時期によって、角張ったスタイルや丸みを帯びた
ものなど、バラエティに富んだ車両たちだったのだが、準急に充当される車両には
扉下のステップがない。
だから緩急分離というよりは、路面上にある駅を通過する電車が準急という位置付け。
80型の普通電車は日中は専ら三条-四宮間の区間運転で、浜大津まで乗り入れるのは
600・700型準急と使い分けられていたのだった。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・上栄町-浜大津
逢坂山トンネルは、京阪電車で唯一の山岳トンネルだった。
(本線系統には大阪市内と京都市内に地下トンネルがある)
これを抜ければ、まもなく大津の中心部に入ってくる。終着の1つ手前、上栄町駅を
出ると再び線路は道路の真ん中へ。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・上栄町-浜大津
ここから浜大津駅まで電車は道路上を走る。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・上栄町-浜大津
ちなみに、この区間はいまも変わっていないはず。2両編成の緑色の電車ではなく
4両編成のパステルカラーの地下鉄電車が走っている。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・浜大津駅付近
そして、琵琶湖に近づくと終点・浜大津駅。
でも、これで終わりではない。京阪大津線と総称される路線は片仮名の「ト」を
鏡に映したような線形をしているのだ。ここまで見てきた京津線が短い斜めの線。
そして真っ直ぐな線に相当するのが石山坂本線。
でも、当時の<ガキ鉄>は、これを「石山坂・本線」(いしやまざか・ほんせん)だと
思っていた。京津線が支線で石山坂本線か...と。
何ともお恥ずかしい限り。もちろん、「石山・坂本線」。
石山も坂本も歴史に詳しい方なら必ずや名前を聞いたことがあるのではなかろうか。
京都と大津の一文字ずつで京津線なら、石山と坂本で石坂線で良いような気もするが、
それでは某俳優のイメージが強すぎるから...ではなかろうが、こちらは
南北の両終点の地名から名付けられている。
さて、そんな石山坂本線。
こちらも車両は京津線準急と同型車だが、基本的に路面上を走る区間はない。
でも、浜大津駅の三井寺駅側では少しだけ路面上を走るのだ。
この区間だけは、いまも緑色の電車が道路上を走っている。
【1993年頃(?)】 京阪石山坂本線・浜大津-三井寺
道路を跨ぐように設置された架線柱、その下をゆく路面電車にしては大柄な電車。
クルマの通行量もそれほど多くなく、雰囲気のある写真を撮れそうだが...
【1993年頃(?)】 京阪石山坂本線・浜大津-三井寺
こんな写真を撮ったくらいだったのだ。
…… ……
そんな歴史の舞台を駆け抜けてきた緑色のトラム、80型電車はいまも
石山坂本線の車庫に1両が保管されているとのこと。公開の機会を見つけて
再会してみたいと思っている。(おわり)
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
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少しずつ再開していきます。こちらのリンクよりお越し下さい。
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昨日の記事で触れた福井鉄道福武線。<変態鉄>にとって福井鉄道と言えば、
連接車200形電車だった。1960年(昭和35年)頃に製造された電車は、
路面電車ながら、車内には4人掛けボックスシートが並び、何だか旧型国電のような。
「昭和の電車」の風情がよく残っている。こんなのが、いまも福井の中心街の
目抜き通りをゴロゴロと走っているのだから...
う~ん、タマランチ会長。(johncomebackさんの影響か??)
【2013年10月29日13時29分】 福鉄福武線・越前武生駅
この車両、201から203まで、3本あったのだが、このうち201が廃車解体されたとのこと。
福井鉄道の、会社の公式ツイッター(→ こちら)に西武生(?)での解体作業の様子と
ともに「長い間本当にお疲れ様でした」とのこと。
50年以上前、新車として導入されたときの「夢の急行列車」として紹介された
公式パンフとともに貴重な写真も紹介されている。
自分が撮りに行ったときも、最近では、202と203ばかりが稼動して201は休んでいる
ことが多かった。解体されてしまった201は、最後まで満足な写真が撮れなかったが、
残る202、203を撮りに行きたい。
さて、話は飛んでイスタンブール。(← ホントにすみません)
…… ……
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・日ノ岡電停
これほど“思い出の路線”などと曰いつつ、実は全線を乗り通したのは、
たった一度だけだった。当時、トラムに嵌っていた自分。
実は、蹴上以東の区間にも魅力的な情景は展開されていたのだが、当時のガキは、
「路面上を走る区間で撮らないとトラムを撮る意味など無い!!」
「京都市街地から離れると往復の運賃が負担になる!!」
何とも勿体ないことをしたわけである。
京都から山科を経て、逢坂山をトンネルで抜けて大津の町に至るこの路線、
京津三条-蹴上、上栄町-浜大津の両端部以外に、日ノ岡付近も道路併用区間が
あった。昨日の記事では京津三条-蹴上の模様をご紹介したので、今日は他の2箇所の
路面併用区間の写真を中心に。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・日ノ岡電停付近
蹴上を出てしばらく、日ノ岡電停付近で再び三条通の真ん中に戻ってくる。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・日ノ岡電停
その日ノ岡電停は道路中央の狭いホームから乗り込む、まさに「路面電車」の停留所。
ここでの電車の乗り降りは、クルマの往来の激しい三条通を横切って、
素早くホームに移動する必要があった。
80型電車には、こうした道路上にある低いホームからの乗降に対応できるように
扉下にステップが設置されていた。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・日ノ岡電停
ちなみに、ホームは道路中央にあるが電車を待つ間は、この“駅舎”で。
いま写真をよく見てみれば、隣の畳屋さんもなかなか良い感じ。
そういった街並みも配した写真を撮っておけば良かったのだが...
当時の<ガキ鉄>にそこまで考えるアタマはなかった。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・日ノ岡電停
さて、当時の京津線。日中は80型の普通電車と600・700型の準急電車が交互に走る
ダイヤになっていた。600型、700型は京阪電車の標準色を纏い、
同じ型式であっても車体の造られた時期によって、角張ったスタイルや丸みを帯びた
ものなど、バラエティに富んだ車両たちだったのだが、準急に充当される車両には
扉下のステップがない。
だから緩急分離というよりは、路面上にある駅を通過する電車が準急という位置付け。
80型の普通電車は日中は専ら三条-四宮間の区間運転で、浜大津まで乗り入れるのは
600・700型準急と使い分けられていたのだった。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・上栄町-浜大津
逢坂山トンネルは、京阪電車で唯一の山岳トンネルだった。
(本線系統には大阪市内と京都市内に地下トンネルがある)
これを抜ければ、まもなく大津の中心部に入ってくる。終着の1つ手前、上栄町駅を
出ると再び線路は道路の真ん中へ。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・上栄町-浜大津
ここから浜大津駅まで電車は道路上を走る。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・上栄町-浜大津
ちなみに、この区間はいまも変わっていないはず。2両編成の緑色の電車ではなく
4両編成のパステルカラーの地下鉄電車が走っている。
【1993年頃(?)】 京阪京津線(当時)・浜大津駅付近
そして、琵琶湖に近づくと終点・浜大津駅。
でも、これで終わりではない。京阪大津線と総称される路線は片仮名の「ト」を
鏡に映したような線形をしているのだ。ここまで見てきた京津線が短い斜めの線。
そして真っ直ぐな線に相当するのが石山坂本線。
でも、当時の<ガキ鉄>は、これを「石山坂・本線」(いしやまざか・ほんせん)だと
思っていた。京津線が支線で石山坂本線か...と。
何ともお恥ずかしい限り。もちろん、「石山・坂本線」。
石山も坂本も歴史に詳しい方なら必ずや名前を聞いたことがあるのではなかろうか。
京都と大津の一文字ずつで京津線なら、石山と坂本で石坂線で良いような気もするが、
それでは某俳優のイメージが強すぎるから...ではなかろうが、こちらは
南北の両終点の地名から名付けられている。
さて、そんな石山坂本線。
こちらも車両は京津線準急と同型車だが、基本的に路面上を走る区間はない。
でも、浜大津駅の三井寺駅側では少しだけ路面上を走るのだ。
この区間だけは、いまも緑色の電車が道路上を走っている。
【1993年頃(?)】 京阪石山坂本線・浜大津-三井寺
道路を跨ぐように設置された架線柱、その下をゆく路面電車にしては大柄な電車。
クルマの通行量もそれほど多くなく、雰囲気のある写真を撮れそうだが...
【1993年頃(?)】 京阪石山坂本線・浜大津-三井寺
こんな写真を撮ったくらいだったのだ。
…… ……
そんな歴史の舞台を駆け抜けてきた緑色のトラム、80型電車はいまも
石山坂本線の車庫に1両が保管されているとのこと。公開の機会を見つけて
再会してみたいと思っている。(おわり)
(※)撮影時刻は写真データのものです。したがって、実際の時刻とは多少前後します。
あなたの「ポチッ!」こそが、励みになります。あっ、あと、「nice!」も。
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拙ブログへのコメントありがとうございます。
鉄道写真は望遠が中心ですよね。僕は何を撮りたいのか
自分でもよく分からなく、取り敢えず機材を集めてます。
by johncomeback (2015-02-02 05:55)
johncomebackさん
コメントありがとうございます。
自分も広角~標準をズームでもう1本買い足さなければいけないのですが...。仰る通り、撮る写真の性質上、どうしても望遠が気になってしまいます。
by あるまーき (2015-02-02 10:10)
久しぶりにお邪魔いたします。
京阪の「大津線」に最初にお目にかかったのは、もう今から40年以上も昔、「大阪万博」への道中での立ち寄り。、まだ両線の駅が別々だった浜大津界隈で、ポールが乗っかっていた電車を眺めていたことを思い出します。結局このときには乗ることはなく、その6年ほど後になって、既にポールではなくなっていた京津線と石山坂本線の全線を乗り回したのですが、それこそ「ただ乗り回しただけ」で、沿線の観光さえしませんでした。石山坂本線には、そのあと再び乗ったのが、まさに今回の写真に出ている平成5年=1993年。今度はようやく石山寺、義仲寺、三井寺と沿線の古刹巡り、翌日は近江八幡に出てタクシーに。近江商人の町並み歩き~湖東三山~彦根城とハードスケジュールをこなしたのでした。
その頃はまだ京津線が全区間健在だった頃で、京都市内には足を伸ばすことはありませんでしたが、京都側が地下鉄に取って代わられた今となっては、大津線はもはや「路面電車」とは言い難い存在で、「普通の電車が短区間道路の上を走っている」と言ったほうがふさわしい路線になっているのでしょうか。
by 伊豆之国 (2015-02-02 23:58)
伊豆之国さん
丁寧なコメント、ありがとうございます。
いまでは浜大津駅付近にわずかに道路併用区間が残るだけですから、それを腰越付近と思えば「江ノ電」に近い位置づけでしょうか。石山坂本線も、江ノ電も歴史の、しかも時代は前後しても武士の時代の重要な舞台となった土地の路線というのも...。
自分の記憶の中の「大津線」は80系と600・700系の時代ですので、ポール集電の頃や、その後の260系などの時代というのも、当時の写真を見ては、その時代の<鉄>の皆さんを羨ましく思っている限りです。
滋賀県というのは通過するだけのことが多いのですが、石山坂本線沿線もいつか時間をかけて巡ってみたいと思います。
by あるまーき (2015-02-03 02:38)